昆布という漢字。呼び方はアイヌ語の、コンプが「昆布」という漢字で
呼ばれています。
英語では昆布を「Kelp」といいます。
ユネスコ無形文化遺産にも登録された和食の「だし」は国際語になっ
ている、「うま味」(UMAMI)の出汁文化は、昆布だし(グルタミン酸)、
鰹節だし(イノシン酸)、キノコだし(グルタミン酸とグアニル酸)ですが、
私は朝の出汁には昆布だし、椎茸だし、あごだし(飛び魚)での出汁で
味噌汁を作り食べています。
関西の昆布だしの食文化は、北前船が、蝦夷地から日本海、瀬戸内
海航路で大阪まで、延びたことにより、昆布の流通の発展をもたらし
たものとされている。
昆布の種類には利尻昆布、羅臼昆布、日高昆布、真昆布等とあり、
北海道が主産地ですが、北前船の交易船がコンブロードとして日本
海から関西に運ばれたので、関西の料理は昆布だしの食文化が発
展したとある。
現在日本で一番の昆布需要は沖縄ですが、中国(志那の国)では薬
の繋ぎ、甲状腺の治療のために必要な昆布の需要から、江戸時代の
鎖国政策で日本から昆布が入手できなくなり、島津藩が中国に密貿
易で沖縄(琉球)から輸出したことにあるとのことです。
中国では、薬のつなぎで昆布が必要のため、富山県越中から、鹿児
島薩摩の沖縄琉球から密輸で中国まで輸出して、帰りの船で中国の
薬を富山県越中は輸入して越中富山の売薬商として発展したとのこ
とです。
西廻り航路を開拓したのは、現南伊勢町出身の河村瑞賢とされている。
幕命により酒田から日本海航路から、瀬戸内海航路と江戸へ御料米
を運ぶ航路を整備したのも河村瑞賢とされている。北前船で河村瑞賢
は1618年生まれ1699年死亡で活躍した後に、江戸後期に高田屋嘉
兵衛は函館(箱館)を拠点に蝦夷地交易で巨万の富を得たが、国後島、
択捉島までの航路を開拓したのです。
私の故郷の様似町には寄港地として、高田屋嘉兵衛の北前船の辰悦
丸は昆布、木材等を搬送したのです。私が盆暮のお使いものにしてい
る昆布の尺度は、この北前船の船底の尺度に合わせた三尺五寸で梱
包した尺度がいまだに使われています。
東廻り航路では、後にはみかん船の紀伊国屋文左衛門(1669-1734年)
も思い出します。
昆布加工品としてとろろ昆布、おぼろ昆布等ありますが、加工場はほと
んど日本海に面したところが多くあります。
地層の違いで関東は火山灰土が積み重なったローム層なので、硬水で
ミネラル分を多く含むので、グルタミン酸が溶けにくく昆布だしの出汁が
取りにくく鰹だしで、関西は昆布だしで、水の違いによるとのことです。
バフンウニは昆布をたべるので、子供の頃は、磯でいくら採ってもお咎め
がありませんでしたが、現在は密漁で罰せられます。当時は、ウニより、
昆布のほうが商品価値があったのです。
昆布は「ヨロ昆布」という語呂から喜びと縁起物としても、重宝されていま
すが、サラブレッドの名前を「ヨロコンブ」と登録申請をしましたが、何で却
下されたか不明です。
ヨロコンブとはなりませんでした。
令和5年11月30日
小関勝紀